神田和泉 屋から坂上「お茶の水駅」に行く途中には、徳川さんの前に江戸を支配していた太田道灌の娘の病気平癒のために建立された「太田姫稲荷神社」や大久保彦左衛門の屋敷跡、勘定奉行(江戸時代の財務大臣)小栗上野介の屋敷跡、ニコライ堂など、「水道橋駅」に向かう道には薩摩藩藩邸跡(現在の池坊あたり)、橋の向こうには江戸総鎮守の一六〇〇年の歴史をもつ「神田明神」、東京大学の前身の昌平講(江戸時代の学問所)などがあります。
現在の小川町には、江戸時代には将軍が上野の寛永寺に参内する重要な通り道「神田橋御門」の警護を担当した十万石の大名であった京都淀の稲葉丹後之守(春日局の後裔)の小川丁中屋敷があったそうですが、古老の話ではご維新の後は神田和泉屋のこの周辺は町屋となり、魚屋の並びに侯爵子爵の屋敷があったり、なんともごちゃごちゃしたところだったそうです。大正時代の現在の小川町の靖国通りはエノケンが歌ったモボ(モダンボーイ)モガ(モダンガール)が闊歩した東京一にぎやかな通りで、カフェが立ち並び、ロシア革命で逃げてきた白系ロシア人の女性などが働いていたそうで、今も天下堂ビル、資生堂ビルなど、当時のカフェだった名前がビルに残っています。中央大学、明治大学、日本大学、東京電気大学、文化学院、アテネフランセなど学校の街でもあり、近くには神保町の古本屋街がある文化の臭いのある町でもありますが、祭りがとても盛んで、神田明神には町内の氏子神輿が勇壮に百基も宮入をします。2年に一回の祭りですが、一年も前から準備が始まり、すべてが祭り優先となり、誰も仕事が手に着きません、という神田のど真ん中です。
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